自己紹介
onai shigeo
性別:男
昭和36年(1961)生まれ

部位:右腎盂
手術:02.01.09 右腎臓摘出
予後:T2 G3 (筋層浸潤)
予防的抗癌剤 1クール

癌の手術から生還して9年目突入。
進行癌だったため、今も年2回のマジに痛い検査は欠かせませんが、癌になったお陰で、重い鎧を脱ぐことが出来たと強く感じます。
今から思えば、僕は自分自身にカウンセリングをしていた、そうすることで恐怖や不安、そして未来への虚無感から脱出できたのです。

「癌は二度、人を苦しめる」
これが僕のテーマです。
病としての癌に対して、僕が出来ることはなにもありません。
せめて癌から派生するココロの痛みのケアがしたい、それが僕がカウンセラーであり続ける基本だと考えています。

2010年現在、東京都委託事業として、
都内2箇所のがん拠点病院内で
「ピアカウンセリング」を行っています。
東京都がん患者療養支援モデル事業(ピアカウンセリング事業)
(受託事業所:NPOがん患者団体支援機構)
PROFILE
RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
OTHERS

11
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--

がん以前以後

腎盂癌(がん)体験記。また、一個人として、カウンセラーとして、癌と生きることの難しさ、その融和、そして、癒しの試みについて考えます。
<< [46] 術後一ヶ月検診 | main | [48] 生き方について考える >>
[47] 「死に方」について考える
「転移」「死」というものを調べていくと、やはり空恐ろしいものがあるわけです。
腎臓を一つ失った僕は、しかし生活上の支障はまったく感じないわけで、体力が衰えたこと以外はいたって健康でした。

危険度の高い膀胱への再発は、三ヶ月毎の検査で「早期に」発見される。
その場合は、内視鏡で切除。一週間程度の入院治療。
人によってはこれを何度も繰り返すらしい。
しかし何度も膀胱をいじっていると、破れたり、機能しなくなったりすることがある・・・つまり人工膀胱の可能性があるということ。
これはたまらなく憂鬱な可能性です。

しかし、ネットで調べるうちに少しだけ光明が見えてきました。

人工膀胱には、回腸導管、蓄尿型人工膀胱、自排尿型人工膀胱の3種類があって、もっとも一般的なのが回腸導管で、腹部にストーマ(穴)を開けてパウチ(袋)に貯めるタイプのもの。
僕がたまらなく憂鬱だったのは、このタイプのことですね。
しかし自排尿型人工膀胱は、回腸の一部を使って膀胱の代わりとなる袋を作って、これを尿管と尿道につなげる・・・つまり、見た目は今までと変わりないわけです。
ただ、尿意は感じないようなので、時間を見計らって手で下腹部を押して排尿するそうだ。
いや、こんなのはストーマに比べれば断然いい。
膀胱に再発したときは、何が何でも自排尿型人工膀胱を希望しよう。
出来ないと言われたらセカンドオピニオンだ。

この発見で、膀胱再発に関して(だけ)は、とても気が楽になった。
と言うのも・・・膀胱内視鏡手術は、逆行性腎盂造影検査と大して変わらないようなのです。二度と体験したくはないけれど、逆に再発があの程度の辛さでしのげるのだとしたら、必要以上に憂鬱になることはないんだと思い至れたのです。

次ぎに、他臓器への転移はどうだろう?
国立がんセンターのホームページには「転移がある浸潤性腎盂・尿管がんの場合、2年生存率で10%以下と極めて不良」などと書いてある。
多くは肺や肝臓ということは、転移癌の根治的外科的手術は無意味ということなのか?
となると外科的手術というより、放射線治療がメインになるのかも。
抗癌剤は・・・いやだなあ。
まあ、これもどうやら転移した場所によるらしいのですけどね。

しかしとにかくこれらは(たぶん)延命的治療。
冷静にみて、多くの転移された方々が亡くなっていく現実から、僕が死から逃れられるとは考えられない。
他臓器への転移が発見された場合、それは残酷な死の告知と同義なんだと思う。

では、根治不可能な転移癌の場合、僕はどう死んでいくのだろう。
これも、転移した臓器によって異なるようだ。

痛いのだけはいやだなあ・・・
と、やがて「セデーション」というものを知る。
「セデーション」末期医療における、意識レベルを落として痛みを感じさせなくする「治療」のことです。「末期」でなくても単に「苦痛を和らげる治療」のことも指すようですが。

なるほど。
つまり「意識がなくなる=死」と捉えれば、自分で死ぬ時を選択できるというわけなのだ。
家族や友人にちゃんとお別れができる。
みっともない断末魔を晒さなくて済む。
・・・これはいいかもしれない。

しかし、ふと思った。
僕はいい。
痛みも忘れて心停止するのを待つだけなのだから。
しかし、心停止するその時を待ち続ける家族の思いは、どんなものなのだろう・・・

そうかあ・・・楽になるのは自分だけなんだな。

僕が初めて「セデーション」というものを知ったとき、なぜ癌患者の(たぶん)多くは、セデーションを施さずに激痛にもだえ苦しみながら亡くなっていく道を選ぶのだろうと思っていた。
最後の最後になっても「死にたくない」「死ぬはずがない」という思いもあるのだろうと思う。それも少しだけ分かる。
でももう一つ、自分だけ楽になることが許せないんじゃないかと想像する。

(たぶん)度重なる転移を経験し、辛い治療や体力の衰えを自覚しながら、死の恐怖にうち震え、しかしそれでも家族のために生き続けたいという強烈な願い。
たった一度の告知、治療体験だけでも、僕は死の恐怖と戦い、深く深く「生きたい」と願った。
それが、転移するたびに「繰り返される」
しかも更に強化されて。

「セデーション」とは、つまるところ逃げではないのか?
冷静になって、「患者」のQOLを突き詰めればセデーションはもっと普及すべきと僕は考える。だって・・・死に至る「苦痛」は、絶対的に不要であるはずだから。
しかし自分のこととなると、やはり事は割り切れない。
何故か?
やはり「最後まで闘った父親」でいたいからなんだろうなー。
つまり、死ぬその寸前まで見栄を張りたいのかもしれない。
激痛をも引き替えにしてね。
| 癌、以前以後(治療記) | 19:03 | comments(0) | - | pookmark |