自己紹介
onai shigeo
性別:男
昭和36年(1961)生まれ

部位:右腎盂
手術:02.01.09 右腎臓摘出
予後:T2 G3 (筋層浸潤)
予防的抗癌剤 1クール

癌の手術から生還して9年目突入。
進行癌だったため、今も年2回のマジに痛い検査は欠かせませんが、癌になったお陰で、重い鎧を脱ぐことが出来たと強く感じます。
今から思えば、僕は自分自身にカウンセリングをしていた、そうすることで恐怖や不安、そして未来への虚無感から脱出できたのです。

「癌は二度、人を苦しめる」
これが僕のテーマです。
病としての癌に対して、僕が出来ることはなにもありません。
せめて癌から派生するココロの痛みのケアがしたい、それが僕がカウンセラーであり続ける基本だと考えています。

2010年現在、東京都委託事業として、
都内2箇所のがん拠点病院内で
「ピアカウンセリング」を行っています。
東京都がん患者療養支援モデル事業(ピアカウンセリング事業)
(受託事業所:NPOがん患者団体支援機構)
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がん以前以後

腎盂癌(がん)体験記。また、一個人として、カウンセラーとして、癌と生きることの難しさ、その融和、そして、癒しの試みについて考えます。
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[07]がんになったわけ
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[5]再検査|[6]勝手に死ねないということ|[7]がんになったわけ|[8]検査入院前夜
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その日は、再検査の話はそれ切りで、後は何事もなく過ぎました。
しかし、再び目が冴えて眠れません。

僕はこれまでの人生を振り返りました。
僕の育った環境は、不幸でも貧困でもなかった、だけど到底、僕自身には受け容れることのできない家でもありました。

父は酒乱で母は水商売。母は酒乱の父から逃れるためか、たびたび外泊して、朝が苦手な僕は遅刻する事が少なくありませんでした。やがて、遅刻より休んだ方がかえって気が楽だ、と気付くまでには、そう時間はかかりませんでした。

中学高校と、正確には覚えていませんが、月に2度3度は、ずる休みして家で読書をしたり惰眠を貪ったり、ゴロゴロするが恒例となってしまいました。
ぐれはしなかったけど、こんなんで学習意欲や勤勉さが身に付くわけがありません。弁解のようですが。

嫌々進学した高校では、平日から友達の部屋を泊まり歩き、授業では公然と教師に刃向かいました。ただそれは正義感、などではなく、教師を見下していただけに過ぎないのですが。

3年の後半をほとんど休んで過ごしました。
その頃恋愛問題で色々あって、具体的には2年の夏から付き合っていた同級生と3年の秋に別れた。
ただ理由が、その彼女と付き合い始める前に好きだった女の子と寄りを戻したかったから。
しかし、その娘は高二の時の僕の裏切りを許してはくれず、別れたはずの彼女には、しつこくつきまとわれ、そんな間に別の学校の下級生と付き合ったりとか、そして最悪なのは、別れた彼女との性関係が彼女の母親にばれて呼び出されて・・・

最終的には学校がバカらしくなったことと、親に性交渉がばれた彼女に会いたくないのと(だってこれは絶対、彼女が自分でバラしたとしか思えないし)、告白したのに受け容れてくれない娘は、教室で席が隣りだったし・・・

もしかしたら清算、という意味もあったのかも知れません。
なんとか高校を卒業すると、僕は飛び出すように東京を目指しました。
上京し、しかし定職に就く事もなく、その時の気分でアルバイト先を替え、好きなライブに行ったり芝居を見たり映画を見たり、バイト先で知り合った仲間と夜通し騒いだり、ただ好奇心を満たすこと、楽しむこと、快楽だけに熱中し、社会的には不要な存在として生きるだけの毎日を繰り返しました。

突然飛び出し、しかも定職に就かずフラフラしている息子が、母親は心配でならなかったろうし、淋しくてたまらなかっただろうとは、今だから推察できるに過ぎません。
(情の薄い兄はとっくに家を出ていました)
週に一度は必ずかかってくる電話は心底わずらわしく、一方的に電話を切ったり、暴言を吐いたりもしました。

あの頃の僕には、酒乱で仕事をしない父と、家計を支えるためにスナックを営む母は同罪であると思っていました。
しかし後に知ることになるのですが、父が母に与えた言葉や肉体への暴力は、実に僕の兄が生まれる前から始まり、母は、一種の賭けの思いで(もう一人、子供が出来れば夫も変わるかもという)、僕を産もうと決意したようです。
しかし、そんな母の願いは脆くも打ち砕かれたのです。

理不尽な境遇と折り合いを付けるために、母は母で生きる喜びを見つけたかったんだと思います。夫がどこにも連れて行かないから、友達と積極的に遊びに出かけ、交友関係を広げることで、夫にメチャクチャにされたプライドを再生しようとしていたのではないかと、今だから思い至れるのです。

そんな母も、今はいません。
ろくでなしだった父が死んでわずか2年の余命でした。

そんな僕ですが、不思議な事に小さな頃から友人には恵まれていました。
しかし僕は、とても傲慢で自己中心的でした。
「友達は大切にしなくても付いて来る」
もしかしたら、そんな風に思っていたのかも知れません。

自分でも恐ろしいことをしたなぁと思うのは、中学三年の時、交友関係が煩わしくて一気に縁を切ろうとさえ考えていたことです。
受験した高校を選んだ理由も、仲間が誰一人受験していない、ということも後押しになりました。
そうやって、自分勝手で、その場その場の気分で付き合ってきたわけですから、傷つけることは少なくなかったし、仲間が集まっているその場面で、実際に絶交を告げられた、なんて「ドラマの世界」のような事件も何回か経験しています。

母のことをふり返れば、母の思いを無視し、悲しませてきた「生きる価値のない」自分がいる。
友人や恋人のことをふり返れば、友人や恋人に残酷な仕打ちを繰り返してきた「生きる価値のない」自分がいました。

そんな生き方をしてきたものですから、癌を告知され一番最初に頭に浮かんだのは、実は「とうとうバチが当たったな」という言葉だったのです。

人は死に直面すると走馬燈の様に思い出がよみがえると言いますが、すっかり死ぬ気でいた僕にも、あまり思い出したくない(友人のことやそれ以外の)思い出の数々が襲いかかってきました。そして溢れるほどの後悔の波にもまれ、ふと自分は、癌になって当然のヤツなのだと、妙に納得した事を憶えています。

その夜、突然、激しい感情の波がわき上がってきました。
「癌になって当然だ。死んで当然なんだ!」
死んで当然だと思った途端、「死」が想像でも単なる自虐心でもなく、現実のものとして迫ってきました。僕は布団にもぐって嗚咽しました。激しい感情は、やけっぱちではなく恐怖でした。
死ぬことへの恐怖です。
恐ろしく暗く深い闇が見えました。
永遠の「無」に漂う自分と闇の世界が見えました。

そして、僕が死んだ後、悲しみ、途方に暮れる家族の様子が見えました。
そこに自分がいない、その妄想は、恐ろしいくらいに殺伐としていました。
死んだら子供と遊べない、子供の笑顔も見られない、子供の成長も見られない、最愛の子供らに、幸せどころか「父の死」という最悪最低の贈り物をしなければならない。

受け容れられるはずがありません。
受け容れられずに、僕は死を恐れ、夜が明けるまで慟哭し続けました。
| 癌、以前以後(治療記) | 11:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |









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