自己紹介
onai shigeo
性別:男
昭和36年(1961)生まれ

部位:右腎盂
手術:02.01.09 右腎臓摘出
予後:T2 G3 (筋層浸潤)
予防的抗癌剤 1クール

癌の手術から生還して9年目突入。
進行癌だったため、今も年2回のマジに痛い検査は欠かせませんが、癌になったお陰で、重い鎧を脱ぐことが出来たと強く感じます。
今から思えば、僕は自分自身にカウンセリングをしていた、そうすることで恐怖や不安、そして未来への虚無感から脱出できたのです。

「癌は二度、人を苦しめる」
これが僕のテーマです。
病としての癌に対して、僕が出来ることはなにもありません。
せめて癌から派生するココロの痛みのケアがしたい、それが僕がカウンセラーであり続ける基本だと考えています。

2010年現在、東京都委託事業として、
都内2箇所のがん拠点病院内で
「ピアカウンセリング」を行っています。
東京都がん患者療養支援モデル事業(ピアカウンセリング事業)
(受託事業所:NPOがん患者団体支援機構)
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がん以前以後

腎盂癌(がん)体験記。また、一個人として、カウンセラーとして、癌と生きることの難しさ、その融和、そして、癒しの試みについて考えます。
[49] 友と交わす盃
僕の好物はお酒です。
一番好きなのはビールで、真冬でも欠かすことはありません。

入院前はちょうど忘年会シーズンで、会社、友人、趣味の会などなど、これで最後かもしれないと思いは強く、結果いつも以上に痛飲する忘年会が続きました。
・・・癌ではなくお酒で入院する勢いでしたね(苦笑)

そんなわけですから、入院治療中断酒できるのかが、僕にとってはかなり深刻なテーマだったわけです。
しかし意外なことにとても簡単でした。

手術後、抗癌剤治療が決まり、一週間ほどの初めての外泊が許されました。
外泊の最初の夜に、僕はいそいそとビール缶を開けました。
何しろ入院から2週間です。
これほどアルコールを口にしなかった経験なんて未だかつてなかったのですから。
ところがです。
一口ビールを含んで、僕は衝撃を受けました。
まったく美味しいと感じられないのです。
ガマンして飲み続けましたが、半分くらいイヤになりました。
これは抗癌剤治療の前です。
だから抗癌剤の副作用ではない。
単に手術によって体力が奪われ、体か変調を来していた結果なのです。
(風邪を引いたときビールを飲んでもまずいのと同じでしょう)

結局、僕は退院するまで何度か外泊しましたが、とうとう外泊中にお酒を飲むことはありませんでした。
飲みたいと感じられなかったといった方が正確です。

念願の退院後は、意地(?)で毎晩飲み続けましたが、入院前のように美味しいと感じるまでにはしばらく時間が必要でした。
これはビールだけではなく食事も影響を受けましたから抗癌剤の副作用です。
味覚を奪った抗癌剤の威力・・・・というか強さに改めて驚かされます。

さて、退院から一ヶ月ほどして、僕は古い友人達と酒の席に着きました。

たぶん30歳を迎えた頃だったと記憶するのですが、古い友人の一人から一つの提案がなされました。
我々は学生時代、独身時代と違って、もはや気軽に集まることも遊ぶことができない立場にいる。
社会的な責任も増すこれからは、よほど意識しないと会う機会はますます減るだけだろう。
そこで定期的に(義務化して)席を設けないか?

ようするに定期的にお酒を飲みましょうというお誘いです(笑)

声をかけられたのは二十歳前後に勉強会と称してやはりお酒を飲んでいた仲間達。
その後、いったんは離ればなれになりましたが、30を前にして、全員が故郷に戻っていたのです。

定期的に飲み会することに異存のある者はいません。
が、30歳といえばまだまだ若造で理屈っぽい頃です。
元々が勉強会を通して知り合った仲間ですから、会うならまた勉強会にしようとか、仲間を増やそうとか、実際勉強会らしきものをやったり、ゲストを迎えて討論するなんてこともしました。

しかし同時に30歳といえば、すでに安定志向で色々な意味で守りに入る年頃。
毎回テーマを設けて・・・・というのは誰にとっても負担でした。
自己啓発的な会合は早速と崩壊し、単なる飲み会と化してしまったのは、ある意味必然的だったとも言えます。
それにしてもこの飲み会。
二ヶ月に一回というスケジュールをほとんど変えることなく、現在に至るまで続いています。
もう20年近くなるわけで、よくもまあ飽きもせず集まれるなあと感心すると共に半ば呆れます。

前置きが長くなりましたが退院後に酒を囲んだのがこのメンバーでした。
もちろん癌になったのはこのメンバーで僕が初めて。
年末に「生きて帰る」と誓って、約束通りまた一緒にお酒が飲めたのです。
生還をこうして共に祝ってくれる仲間がいるということは、なんと有り難いことでしょう。
一人が感極まって「死ななくて本当に良かった」と泣ました。
「死ななくて良かった」
そう言われてみて、僕は改めて本当に大変な体験をしたんだなーと思いました。

大変な体験・・・すなわち貴重な体験です。
この体験を交友関係に活かすことはできるのか?
経験者として語れることはあるのか?

入院治療は、個人と家族にとっての問題でした。
退院後はしかし、社会との関わりが復活します。
個人的なことではボランティアで存在意義を見出した。
しかしそれは自分の内側に向かう性質のものです。
戦争体験者が悲惨な体験を語り継ぐように、僕がこの体験を語り継ぐことに意味や意義を見出せるのか?
それが社会に対する何らかの貢献となり得るのか?

友人等と語らいながら、僕はこんなことを考えていました。
大袈裟に言えば、たぶん生まれて初めて「社会」を意識した瞬間なのでした。
| 癌、以前以後(治療記) | 12:44 | comments(0) | - | pookmark |
[48] 生き方について考える
「癌」という病を色々調べていく過程で、考えてもみなかった多くの区別に行き当たっていきます。

進行癌であるということは「今も癌細胞が身体の中を漂っている」という可能性を示唆しています。
つまり「献血」はできない、というか、しないほうがいい。
同様に「臓器提供」も、しないほうがいい。
角膜は大丈夫みたいなんですけどね。

加えて当然の如く、新しい生命保険に入れない。
術後ようやく5年経って保険屋さんに審査してもらったけど、状況は大して変わっていませんでしたね。

つまり、癌になるとは、社会復帰後も差別を強いられると言うことなのです。

「癌からの生還」・・・等というカッコイイ表現がありますが、退院直後の高揚感はそれほど長続きしません。と言うかいつまでもハイでいる方が変なわけで、退院したら現実が待っているわけです。

そりゃ・・・一度は死の宣告を受けたわけですよ、自分の中ではね。だから、僕も生まれ変わったと思ったわけです。「生まれ変わった」はずだど。
でも、アニメのヒーローではないから、生命の剣とか、神秘の印があるわけではない。髪の毛が抜けたことと体力がひどく衰えたこと以外は、外見は何も変わっていない。無惨な術痕はありますが、見せて歩くわけにはいきませんからね〜(苦笑)

と言うことで「変わったはずだ、生まれ変わったはずだ」と言い聞かせてみても、何が変わったのか自分でも分からないのです。
でもね、あんなにも辛い思いをしたんだから、生まれ変わっていたいわけですよ。

で、退院後、段々に分かってきたのです。
「確かに僕は生まれ変わった、と言うか以前とは違う。もう、以前と同じには生きられない」ということでした。

僕は・・・・癌になったのがバツだと思ったくらいですから、自分の生き方に自信がなかったわけで、それ故に骨髄バンクなどにも登録していたんですね。卑怯な考え方ですが、自分の骨髄が誰かの命を救うなら、僕の罪は許されるのではないかというたくらみからの登録でした。
ところが、退院後調べてみると、癌患者は骨髄の提供ができないというのです。
骨髄提供は、実は自分が生まれ変わる唯一最大のチャンスだったのです。
それが出来ないと知ったとき、つまり僕は、救われてはいけないと言われているのだと、そんな気持ちにさえなりました。

財布にいつも入れていた臓器提供意思表示カードを破って捨て、件の血液センターに骨髄バンクからの登録抹消を依頼すると、なんだか自分が世の中に全く無用な存在に感じられてならないのです。「もはや無益だけど、存在することを許されている」みたいな感じ。

「離人症」とまでは言わないけど、大袈裟に例えるなら「哲学的な無常感」に包まれましたね、この時の僕は(笑)

しかしまあ、だからといって自暴自棄には生きられないわけですよ。
だって家族がいるし、自暴自棄になる方が結果的にはもっと辛い生き方になるだろうなという予感もあったし。
「哲学的な無常感」を覆すには、どんなことでもいいので「現実的な社会との関わり」が効果的なのではないかと僕は考えました。

それが、骨髄バンクの支援活動に参加しようと考えた理由なんですね。
バラしてしまえば、かなり安易な理由です。

それは退院して2ヶ月後のことでした。

僕はネットで県内のボランティア団体を見つけ出し、メールで入会の意志を告げました。
すると、5月にイベントがあるので、都合が合えば参加してほしいと返事が来ました。
参加したイベントは、今でもよく分からない趣旨のものだったのですが(苦笑)、とにかく僕は指示されるままに来場者の誘導をしたり、募金の呼びかけを手伝ったりしました。
半日の参加で、お弁当と、日当として500円いただきました(現在は日当の支給はありません)

・・・これは間違いなく「現実的な社会との関わり」でした。
「お前でも役に立ってるよ」と、ボランティア団体が社会に成り代わって僕の存在が認めてくれたのです。

究極の贖罪として、自らの骨髄を提供して人の命を救おうという安易な思い付きは頓挫しました。ただ待っているだけで自分は誰かの救世主になれる・・・・等という浅はかな発想で、骨髄を提供できたとして、僕がホントに救われるのかと言えば、恐らく僕は慢心するだけで余計に俗物化したのではないかと今は思います。

退院して無常感に包まれて、僕はようやく「現実の社会と関わる」ことの大切さを身体で理解したわけです。

僕の思い込みみたいなものですが、治療後社会復帰して山登りをする人、日本中、世界中を旅行する人、そういう人って少なくないと感じているのですが、治療後、少なからぬ人たちが、僕が体験したような「哲学的な無常感」に囚われるのではないか思うんです。
方法は違っても、みんなこの無常感を克服するために、自分の身体を使った現実社会との関わりに思い至るのかなー、なんてことを想像したりします。

僕の場合、これで社会復帰が完了したわけではないですが、間違いなく社会復帰の切っ掛けになりました。
再びポジティブに生きる力を、僕はボランティア活動で得たのです。

「僕は社会にとって100%無益ではないみたいだなー」
この感覚は、有益であると感じる自信よりも、はるかに有益だと信じられました。
| 癌、以前以後(治療記) | 17:46 | comments(4) | - | pookmark |
[47] 「死に方」について考える
「転移」「死」というものを調べていくと、やはり空恐ろしいものがあるわけです。
腎臓を一つ失った僕は、しかし生活上の支障はまったく感じないわけで、体力が衰えたこと以外はいたって健康でした。

危険度の高い膀胱への再発は、三ヶ月毎の検査で「早期に」発見される。
その場合は、内視鏡で切除。一週間程度の入院治療。
人によってはこれを何度も繰り返すらしい。
しかし何度も膀胱をいじっていると、破れたり、機能しなくなったりすることがある・・・つまり人工膀胱の可能性があるということ。
これはたまらなく憂鬱な可能性です。

しかし、ネットで調べるうちに少しだけ光明が見えてきました。

人工膀胱には、回腸導管、蓄尿型人工膀胱、自排尿型人工膀胱の3種類があって、もっとも一般的なのが回腸導管で、腹部にストーマ(穴)を開けてパウチ(袋)に貯めるタイプのもの。
僕がたまらなく憂鬱だったのは、このタイプのことですね。
しかし自排尿型人工膀胱は、回腸の一部を使って膀胱の代わりとなる袋を作って、これを尿管と尿道につなげる・・・つまり、見た目は今までと変わりないわけです。
ただ、尿意は感じないようなので、時間を見計らって手で下腹部を押して排尿するそうだ。
いや、こんなのはストーマに比べれば断然いい。
膀胱に再発したときは、何が何でも自排尿型人工膀胱を希望しよう。
出来ないと言われたらセカンドオピニオンだ。

この発見で、膀胱再発に関して(だけ)は、とても気が楽になった。
と言うのも・・・膀胱内視鏡手術は、逆行性腎盂造影検査と大して変わらないようなのです。二度と体験したくはないけれど、逆に再発があの程度の辛さでしのげるのだとしたら、必要以上に憂鬱になることはないんだと思い至れたのです。

次ぎに、他臓器への転移はどうだろう?
国立がんセンターのホームページには「転移がある浸潤性腎盂・尿管がんの場合、2年生存率で10%以下と極めて不良」などと書いてある。
多くは肺や肝臓ということは、転移癌の根治的外科的手術は無意味ということなのか?
となると外科的手術というより、放射線治療がメインになるのかも。
抗癌剤は・・・いやだなあ。
まあ、これもどうやら転移した場所によるらしいのですけどね。

しかしとにかくこれらは(たぶん)延命的治療。
冷静にみて、多くの転移された方々が亡くなっていく現実から、僕が死から逃れられるとは考えられない。
他臓器への転移が発見された場合、それは残酷な死の告知と同義なんだと思う。

では、根治不可能な転移癌の場合、僕はどう死んでいくのだろう。
これも、転移した臓器によって異なるようだ。

痛いのだけはいやだなあ・・・
と、やがて「セデーション」というものを知る。
「セデーション」末期医療における、意識レベルを落として痛みを感じさせなくする「治療」のことです。「末期」でなくても単に「苦痛を和らげる治療」のことも指すようですが。

なるほど。
つまり「意識がなくなる=死」と捉えれば、自分で死ぬ時を選択できるというわけなのだ。
家族や友人にちゃんとお別れができる。
みっともない断末魔を晒さなくて済む。
・・・これはいいかもしれない。

しかし、ふと思った。
僕はいい。
痛みも忘れて心停止するのを待つだけなのだから。
しかし、心停止するその時を待ち続ける家族の思いは、どんなものなのだろう・・・

そうかあ・・・楽になるのは自分だけなんだな。

僕が初めて「セデーション」というものを知ったとき、なぜ癌患者の(たぶん)多くは、セデーションを施さずに激痛にもだえ苦しみながら亡くなっていく道を選ぶのだろうと思っていた。
最後の最後になっても「死にたくない」「死ぬはずがない」という思いもあるのだろうと思う。それも少しだけ分かる。
でももう一つ、自分だけ楽になることが許せないんじゃないかと想像する。

(たぶん)度重なる転移を経験し、辛い治療や体力の衰えを自覚しながら、死の恐怖にうち震え、しかしそれでも家族のために生き続けたいという強烈な願い。
たった一度の告知、治療体験だけでも、僕は死の恐怖と戦い、深く深く「生きたい」と願った。
それが、転移するたびに「繰り返される」
しかも更に強化されて。

「セデーション」とは、つまるところ逃げではないのか?
冷静になって、「患者」のQOLを突き詰めればセデーションはもっと普及すべきと僕は考える。だって・・・死に至る「苦痛」は、絶対的に不要であるはずだから。
しかし自分のこととなると、やはり事は割り切れない。
何故か?
やはり「最後まで闘った父親」でいたいからなんだろうなー。
つまり、死ぬその寸前まで見栄を張りたいのかもしれない。
激痛をも引き替えにしてね。
| 癌、以前以後(治療記) | 19:03 | comments(0) | - | pookmark |
[46] 術後一ヶ月検診
さて、そうこうするうちに術後一ヶ月検診の日がやってきました。
考えてみれば、外来で待つのは入院前の検査以来のこと。
これから何年もここで診察を待つのだなーと思うと、感慨深いと言うより、陰鬱な気持ちになる。
当時は、せめて新しい病院で、洗練された待合室だったらいいのになーと思っていた。
しかし仮に新築の病院だったとしたら、それでも何か理由を見つけて「陰鬱だ」と感じたのだろうと思うのです。
ようするに、「ウキウキしながら検査を待つ自分」なんて想像できないんですね。これは今でも変わりありません。

僕は、病期分類を図解したホームページをプリントして持参しました。
この一ヶ月検診で何か問題が発見されるとはさすがに思ってない。
僕の目的は、自分の癌が何物だったのかを明確にすることだけ。
そういう意味では待ちに待った一ヶ月検診だったのです。
相変わらず予約時間は「目安」というより「記入しないわけにはいかないから」程度のもので、確か1時間くらいしてようやく呼ばれたのだと記憶しています。

で、これは鮮明に覚えているのですが、主治医はこの時、いわゆるこういう場面での常套句である「その後、いかがですか?」を口にしなかったのです。
確かいきなり「検査結果は・・・」と言い出したのですが、実は、その後5年間にわたって「具合はどうですか?」や「何かありますか?」と聞いてくれたことがない。
・・・うーん、あれはドラマの世界だけのことなのだろうか?
ちなみに思い出してみると、この主治医だけではなく、他の個人医院などでも聞かれた記憶がないのです。
一般的にはどうなんでしょうね?

さて、うかうかしているとさっさと帰されてしまうので、僕は急いでプリントした病期分類の図解を主治医に差し出しました。
主治医は「shigeoさんは、よく調べているね〜」と呑気に感心しています。
(患者に調べさせないで、病院が出すのがホントでしょ!)と、心の中で毒づく僕。

「うーん、ここかな」と主治医が指さした箇所は「T2(癌浸潤が筋層に及ぶが筋層を越えていない)」でした。

と言うことで予後は、T2=25〜65%。
最大値は・・・0〜65%。
・・・これでは喜んで良いのか落胆すべきなのか、余計にわからない。
実際、医師はこういう場合、どうみるのだろう?
素人的には重なった部分を見るのかなーとも思う。
すると、2つの異形度の予後と一つの病期分類による予後の全てが重なる値は、25〜30%。
う〜ん、これでは悪すぎる。

と、こんな個人的な「思い」で捉えた数値に、意味などまったくないわけですが、当時の僕は真剣すぎて、そんな当たり前のことにまったく気が付きませんでした。

不思議なもので5年生存率65%と考えると一瞬はホッとするのだけど、直ぐに「そんなわけはない」と不安に包まれる。
25%と考えると、いったんは「こんなもんだろうな〜」と思うのだけど、途端に「そんなはずはない」と否定したくなる。

予後が良いのがいいのか、悪いのがいいのか、自分の命なんだから、良い方がいいに決まっているはずなのに、何故かそうは思えない、感じられない。

これ、一種の「心気障害」みたいな感覚なのかなーと、後になって思ったわけです。

あと、主治医は予後に関しては一切触れません。
プリントしたデータを見せて「こんなものですか?」と問うと「それほど悪くはない」と答える。
でも「どれくらい悪くない」のか、こっちはデータで聞いているのだから、数値で答えて欲しいわけですよ。
とても勝手でわがままな言い分ですが、ちゃんと数値で答えてくれないから余計に不安になるんです。

とにかく僕は異形度G3、病期T2という癌であったと一応確定しました。
しかしこれでホッとするわけではない。
次は「転移したらどうなるのか?」が気になって仕方ないのです。
何しろ腎盂の進行癌は、転移したら治療方法がないというのですから。

入院して、退院するまでの間で一番の問題はやっぱり「自分のこと」
しかし退院すれば、身近にいる家族の未来が再び気になってならない。

転移すれば、治療代はどれくらいかかるのか?
どれくらい生きられるのか?
というより「どんな死に方」をするのか?

家族を持ってもっとも避けたいのは「治療が長引いて職を失い借金が重なること」
それで生還できればいいですよ。
でも、それほど家族に負担を強いて死んでしまうのだけは、どうしても避けなければならないことなのでした。

かすかな奇跡のような望みがあれば、家族の判断としてはたぶんすがりつくでしょう。
立場が違えば僕もそうするわけで。
でもその「望み」には、現実的には莫大な費用がかかったりするわけです。

ならば、家族に無用な負担をかけないためには、最悪のケースを知っておく必要がある。

ネットでの闘病記探索が転移している患者さん中心になっていったのは、考えてみれば当然の流れだったのかもしれません。
| 癌、以前以後(治療記) | 23:03 | comments(2) | - | pookmark |
[45] 闘病記の中の未来
病期分類に関しては、説明がなかったので自分ではどうにも判断できない。
つまり、退院一ヶ月検診を待つしかなく、僕は悶々と日々を過ごすことになるのでした。

いずれにしろ、調べること、やりたいことはいくらでもあるので、気を紛らわすことは難しくはありませんでしたが。

インターネットには、驚くほど多くの癌闘病記がありました。
関わりがなかったから知らなかっただけ。
それがいざ関わってみると、驚くほど色んな世代、色んな部位の闘病記がありました。
しかし・・・腎盂癌はない。

そんなにマイナーなのかと驚くと同時に、情報があまり得られないことに焦燥感が募りました。やがて分かるのだけど、マイナーな癌は、当然治療法も限られるわけです。どうして「転移後の予後」が異様に低いかと言えば、まさにこのマイナーであることが原因なんですね。
僕はあまのじゃくなので、基本的に「マイナー」という響きには弱いのですが、今回ばかりはマイナーであることを喜べないのでした。

ではドラマでおなじみのスキルス胃癌だったらよかったのか?
これはこれで・・・恐ろしいですよね。

当たり前と言えば当たり前なのですが、部位による優劣なんてないわけなんですよ、癌には。「肺でよかったね〜」とか「大腸じゃ大変だ!」なんてことはない。
癌は癌であるが故に、平等に残酷な未来を秘めているのです。

さて、話しを戻しますが、ネットを徘徊するうちに、「面白い」闘病記というものに行き当たる。「面白い」とは不謹慎ですが、癌の進行・治療の経過・執筆者の考え方、感じ方・文体を総合して、読み物として優れている、と同時に共感できる、そんな闘病記が少なからず見つかるのです。

僕はそれらのいくつかの闘病記のファンになりました。

この頃の僕の心の中では、どんな葛藤が起こっていたのだろう。
退院後、新たに入ってくる情報は、予後の悪さを証明するものばかり。
当時の僕は、かなりの確率で数年のうちに再発転移するものと思い込んでいました。
その思い込みは恐怖です。
そして「恐怖」は、事実を知らないから発生する情動です。
未来を見ることができれば、恐怖は抑えこめるのではないか?

闘病記の中にあるもの・・・それは、僕がこれから経験するかもしれない未来なのかもしれない。
そう、これもまた「未来の見える鏡」だったんです。

しかしやがて、進行中の患者さんの命は尽きていく。
遺族による死亡の報告と、応援してくれた方々への感謝のメッセージを以て、永遠に時を止めネットを漂う闘病記。
ある日付を以て、唐突に途切れる本人の日記。
僕は、何度も何度も、途切れた日付前後の日記を食い入るように読み返しました。
読み返したところで、日付は先には進まないのだけど。

それは、広大なネットらに漂う遠い別世界のフィクションのようでいて、近い将来、確実に自分にも訪れる明白な現実でもあるのです。

正直に書きましょう。
再発転移と闘っていた方々の闘病記を、僕は、彼等の快復を願うというよりは、自分の行く道を確かめるために読んではいなかったか?

ある方は、西洋医学から見放され、温泉や健康器具や健康食品や、果ては飲尿健康法や念力、精神力にまですがりました。幼い子どもを持つ彼は、どうしても死にたくなかった。死ぬわけにはいかなかった。その結果が、すがれる可能性に全てすがるという悲壮な行動に駆り立てたのです。
「癌」と無縁な人にとっては、それは滑稽な行いに感じられたかもしれない。
しかし、息を止めて吐きそうになりながら飲尿する彼を、僕は笑うことができなかった。

しかし「ここに未来の僕はいるのか?」
可能性は否定しませんが、本意ではないわけです、僕にとっては。

このようにして僕は、人の闘病記を通して自分を試していたのかもしれない。
試していたのは、恐怖に打ち勝つ覚悟。
そして僕にとってそれは、ある種の臨死体験でもあったわけなのです。

唐突に途切れた日記の先に拡がっているのは、透徹な暗黒世界でした。
それを僕は、執拗にのぞき込み続けたのです。
夜また、眠れなくなるほどに。

実は今は・・・ほとんど闘病記を読んでいません。
何故なら、熱心に読んでいた闘病記の患者さん、みんな亡くなっちゃったから。
それと、やがて、未来を知ることより、未来を作ることの方が楽しいと分かったからです。
ただしそれは、まだとうぶん先の話しですが。
| 癌、以前以後(治療記) | 17:47 | comments(7) | - | pookmark |
[44] 未来の見える鏡
会社での自分の存在価値が心配で、退院後そそくさと出社して「それほど時は進んでいない」と信じられたとき、ホッとしたと同時に、心にスキができたのも確かでした。
(この件は、いずれ書くことになると思います)

慌てて現場復帰する必要はないと読んだ僕は、結局3月いっぱい午前中だけ出社し、午後は「静養」と称し家で「癌」についてネットで情報を収集することに費やしていました。

僕は今、どういう状況なのか?
病院では、結局詳しい話は一切聞かされなかったのです。
分かっているのは「腎盂癌」であったこと、「腎盂から腎臓への浸潤」があったこと、転移の可能性があるので、予防的抗癌剤治療を受けたこと。そして、保険会社に申請するために主治医に書いてもらった診断書。
たったこれだけでした。

まず、診断書です。しかしそれはあまりに素っ気なく、期待していたような詳細な情報は得られなかった。
ただ一つ「異形度:G3」という記述がぐさりと胸を突き刺しました。

世の中には情報があふれている・・・と当時も思いました。
ネットで検索するだけで、タダで色んな情報が手に入るのですから。
だけど僕は、入院前にもネットで情報を収集したはず。
だけど腎臓と腎盂の違いが分からなかった、だからせっかく収集した入院前の知識は、ほとんど価値を失っていたのです。

改めて「腎盂癌」でネットを検索すれば、様々な事の合点がいくのです。

次ぎに「浸潤」の意味が分かればいい。
なぜ浸潤が悪いのか。
こういう事も次第に分かっていくのです。そして分かってくると、手術前に主治医が言った言葉の意味もようやく理解できるのです。
主治医はこんな表現をしました。
「癌がカリフラワーのように腎盂の内側に出っ張っていれば、あまり心配はない」
当時はまったく意味がわからなかったんですね。
カリフラワーってなんだよって。

ようするに当時の僕は、癌には早期とか末期があって、それで全てだと思っていたのです。
しかし癌には種類がある。それを「異形度」という。
つまり「異形度」が軽い癌の見た目をカリフラワーに例えていたんですね、主治医は。この状態を専門的には「表在癌」と言うそうです。で異形度2〜3を「浸潤癌」という。で、それぞれの程度を示すのがG=グレードだったわけです。

つまりぼくの腎盂にできた悪性新生物はG3というタチの悪いヤツだった・・・ということだったようです。
・・・なんでそれを「顔つきが悪い」とか、変な表現をするのか(苦笑)

分かりやすく伝えたいという意図は分かりますが、自分の病気について深く知りたいと願う僕のような患者はかえって混乱してしまいます。

やがて、国立がんセンターのサイトに僕はたどり着きました。
なぜこれまでに立ち寄らなかったか、今もって不思議でなりません。というか、もっと早くたどり着いていれば、全てが判明したはずなのにと。

そこには、驚くべき記述がありました。

---------------------------------------------------------------
一般的に、腎盂・尿管がんの予後は不良といわれていますが、表在がんであった場合の予後は良好で5年生存率は90〜100%程度です。浸潤がんであった場合の予後は、前述したような理由から、膀胱がんより明らかに不良で、各種治療法にもかかわらず5年生存率で10〜40%です。転移がある浸潤性腎盂・尿管がんの場合、2年生存率で10%以下と極めて不良です。

(国立がんセンターがん情報サービス「腎盂・尿管がん」の項目より引用)
http://ganjoho.ncc.go.jp/public/cancer/data/ureter.html
------------------------------------------------------------------

僕の癌は浸潤していた。
だから抗癌剤治療を受けたのです。
このことについて、確かにこう言われていました。
「カリフラワーだったら、抜糸して、少ししたら退院できるよ」と。
同時に「(癌の)顔つきが悪かったら、抗癌剤やるよ」とも。
そして術後、生検の結果が出た後にも「浸潤していたから抗癌剤をしよう」と。

好意的に捉えてみれば、医師は何も説明していなかったわけではないんですね。
ある意味・・・ちゃんと説明責任を果たしていたわけです。
だけど、それにしても患者である僕に伝わらなかったのは、僕の理解度に問題があるからなのか?
または、僕が求めている説明のレベルを、はっきりと伝えなかったからこうなったのか。

しかし、上記の国立がんセンターの記述と照らし合わせると、僕の5年生存率は「10〜40%」
ということになる。
・・・これは間違いなく、誰も言ってくれなかった。
もちろん、僕も聞かなかったのだけど。
と言うか、聞けないでしょ!

しかし「浸潤」が、いったいどの程度だとどうなるのかが、今ひとつ分からない。
僕は更にネット検索を続けました。そして、とうとうこの情報にたどり着いたのです。

名古屋大学病院 腎盂尿管がん概説
http://www.med.nagoya-u.ac.jp/uro/pelvisureter/pu-data.html

このページでは、浸潤の程度と病期の関係が分かりやすい図となって表されていました。
整理するとこんな感じです。
Ta 腎盂内側の粘膜にとどまるっている状態
T1 腎盂内側の粘膜に浸潤している状態
T2 浸潤が粘膜から更に筋質に及んでいる状態
T3 浸潤が筋質を突き抜けている状態
T4 隣接臓器へ浸潤している状態

ここにも異形度と、さらには病期別の5年生存率が記されていました。

腎盂尿管腫瘍の5年生存率は、組織異型度ではgrade1=75〜100%、grade2=50〜90%、grade3= 0〜30%であり、また病理学的な病期では、病期Ta-T1=62〜100%、T2=25〜65%、T3=23〜34%、T4=0〜15%と報告されています。


すでに異形度は分かっています。G3です。
名古屋大学の統計によるとその5年生存率は0〜30%。
・・・国立がんセンターのデータ内におさまっている。
というか、国立がんセンターより予後が悪いではないか!

残るは病期分類です。
このデータは国立がんセンターにはありませんでした。
同じ「浸潤」でも、T1とT3では天地ほど差があります。
異形度がG3でもし病期がT3だとしたら・・・これは5年生存率30%前後が確定するということなのか?

知れば知るほど、現実とは、なんと恐ろしいのだろうか。
しかし、もう知ることを止められない。

僕はまるで、決して見てはいけない「未来の見える鏡」を手にしているような気がしてなりませんでした。
| 癌、以前以後(治療記) | 18:57 | comments(6) | - | pookmark |
[43] 停戦の終わり
入院前の僕は、会社で大規模な組織改革を開始したばかりでした。
その途中というか、スタート直後というか、そんな状況で告知され、入院を余儀なくされたのです。退院はすなわち戦線復帰。それも最前線が僕を待っているわけです。

退院の前日に、病室から送ったメール。

<2002.3.4、社員全員と友人宛てに同報で送ったメール原文>
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尾内です。
このメールは同報です。

さて表題通り、突然ではありますが明日無事退院となりました。

最後の抗ガン剤治療後、白血球の回復を待っていたわけですが、今回意外と減少が少なく、何とか標準値下限ぎりぎりの状態を保っておりましたが、本日の血液検査の結果、回復傾向が見られたため、医師より退院OKをいただくに至りました。

(入院して色々見聞きして分かったことは、退院は例外なく前日にならなければ分からないと言うことです)

およそ2ヶ月間。それ以前、発病を皆さんに告げてからの皆さんの励まし、お心遣い、様々な形のサポート、本当に有り難うございました。
ご迷惑をおかけした分は、これから時間をかけてでもお返ししたいと存じます。

告知されてからの約3ヶ月。本当に色々なことを考えました。
自分自身のこと、家族のこと、会社のこと、社会のこと。
多くのことを反省しました。
多くのことが理解できました。
私はこの退院を新生と捉え、より深く生きるための努力をしていきたいと思います。

社会復帰までには、まだしばらくかかるかと思われます。
無理せず、しかし怠けず、ゆっくりと体力回復につとめたいと思います。
今しばらくご迷惑をおかけすると存じますが、よろしくお願いします。

私を支えてくださったすべての方へ、
こんな私のために、本当に有り難うございました。
皆さんのお気持ちを、私は一生忘れません。

追伸(会社関係の方へ)
だからといって復帰後私が優しくなると言うことではありません。感謝の気持ちを込めてもっと厳しくなるかもしれません。あしからず。
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「追伸」に、僕の焦りが滲み出ていますね(苦笑)

気持ち的には身も心もボロボロ。
でも現実には、術後2ヶ月近く経過しているのだから、動くのはそれほど辛くない。
退院前は、このまま自宅療養しようかどうか迷っていたのですが、ある程度自由に動ける自分を知って、たった一日でなんだか後ろめたくて気恥ずかしい感じがしてきました。
で、退院翌日に流したのがこんなメール。


<2002.3.6、社員全員宛てに同報で送ったメール原文>
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尾内です。
そんなわけで無事退院しました。

元来軟弱な私ですので、いい気になって元気なところを見せるつもりが風邪でも引いたら、ただの大馬鹿です。
今日はとっても暖かな日ではありましたが、取りあえず家でごろごろし、荷物の整理などをしつつ体調を見ておりました。

今後の予定でありますが、明日、明後日は日中顔を出す程度にさせて貰って、11日の月曜日の朝礼には出ようと考えております。
その後、毎日出社出来るかどうかは何とも言えませんが、来週は午前ぐらいは出たいと思います。
(但し皆さんご存じの通り極度の寒がりな故、寒さの厳しい日には大事を取るかもしれません)

今のところ、そんな予定でおります。
まだまだご迷惑をおかけするとは思いますが、よろしくお願いいたします。
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よく言えば前向きな・・・しかし真実は、元来の気の弱さが滲み出た文章で、読み返して改めて恥ずかしくなりました。

当然、妻は「なにもそんなに早く出勤しなくても」と心配して言ってくれます。
確かにそうかもしれない。
「あと一ヶ月くらい休んじゃえば」
そんなことはできません!

サラリーマンの悲しいサガですね。身体はある程度動くわけだから、なんだかズル休みしているような気がして落ち着きません。
・・・・これが結婚するまで定職に就かず遊び呆けていた人物と同じ人間なんだから、自分でも呆れるくらいの変わりようですが(苦笑)

しかし、本当のところはもう一つ。
やっぱり怖いわけですよ、自分の処遇が。
僕の改革路線に対しては、反対勢力が存在するわけです。それなのに2ヶ月も戦線離脱。
保身もあってモバイルパソコンを病室に持ち込んで、ベッドから活動や業績確認したり指示したり、喫煙室での打合せもしたけれど、それでも実際に会社にいるわけではないから、本当の空気は読めない。裏で何が動いているのか分からない。
それがとても不安でした。
一刻も早く、会社の空気を感じ取りたかったのです。

入院が「停滞」であったことは免れません。
ただラッキーだったのは、「癌治療のための入院」は、反対勢力に対しても抑止効果があったということ。いわば停戦です。とてもフェアとは思えない相手でしたが、それほど「癌」というものは威力があったということなんでしょうね。

とにかく入院中に、組織改革は動き出していました。
これを成功させなければなりません。
そしてそのためには、反対勢力と全面対決は避けられません。

「こんな病み上がりで大丈夫なのかなー」
一人になると、不安でした。
でも、先延ばしする方がもっと心配でした。
| 癌、以前以後(治療記) | 20:29 | comments(0) | - | pookmark |
[42] Take Me Home
妻を待つ間、頭の中をエンドレスに流れていたのは、ジョン・デンバー「故郷に帰りたい(Take Me Home, Country Roads)」。
ジョン・デンバーをご存じない方でも「カントリーロード」という曲名ならおわかりでしょう。

もう荷造りは完了しています。
やがて、クリネックスティシューの3コ入りパックを持った妻がやってきました。
それを同室の患者さんに配って、ナースセンターに挨拶して、会計を済ませて、僕は60日に渡る入院生活からようやく解放されたのです。

思い出すことは多く、辛かったり憤慨したりしたことも少なくなかったけど、優等生として退院できた自分を、「よくやった」と本当に誉めてあげたい気持ちでした。

何度も外泊でたどったルートでしたが、この日の気分は格別でした。
「もう戻らなくていい」
この気持ちは、例えようがないほどの幸福なのです。

思えば妻には本当に苦労のかけっぱなしでした。
まだ小学生の娘が二人いて、昼間は仕事に行き、拾ってきた猫の避妊手術があったり、次女が足の指を切って夜間外来に駆け込んだり・・・
僕がいなくても、時は止まってはくれない。
僕の退院を、時は待ってくれない。

どんなに感謝しても、し足りません。
いつか「死が二人を分かつまで」沢山孝行していこう、と心に誓うのでした。

しかし・・・癌になる、入院するということを、深く考えられるようになったのは、退院後かなり時が過ぎてから。

当時の心境はやはり・・・死ぬのが怖かっただけなんだと思うんです。
怖いから、そして逃げられない環境だったから、いわゆる「戦う」ことで自分を律していた・・・。
ふり返って思うに、僕は必死だったんですね。

それと、例えば自分が独身だったなら、僕はもっと違う受け止め方、対処をしたのだと思うのです。
たぶん、模範的入院患者になろうなんて思いもしなかっただろうな・・・

良いのか悪いのかはわかりませんが、とにかく家庭を持つ僕は、人の目が気になりました。
「人がどう感じようがオレはオレ」というわけにはいかなかったのです。
つまり「人がどう思おうが、好き勝手怒鳴り散らしたりワガママ言ったり」することができなかった。
でもね、態度は己の心をも変えてしまうと思うんです。
怒りやワガママや自分勝手な態度は、それ相応の理由(癌の治療)があるんだから、仮に大目に見てもらえることだとしても、自分にとってプラスに作用することは、まずないでしょう。
希に「怒り」が生還へのモチベーションとなりうることもありますが、僕の場合はそこまでタイトではなかった。怒って当たり散らして、そのまま死ぬわけじゃないんですから。生きて帰るつもりだったんだから。
生きるか死ぬかと言うときに、実は退院後が気になって仕方なかった・・・考えてみればまあ、臆病の証明みたいなものですね。

さて、そんなわけでようやく僕は退院しました。
生還できた喜びは、今度は未来をどう生きるか?という問題に変容します。

以前も書きましたが、僕は腎盂癌と腎臓癌の区別がついていませんでした。
外泊の折りなどにネットをさまよって、漠然とその違いが分かってきてはいましたが、まだ確かではありません。

「未来をどう生きるか」という問いは、癌とどう向き合っていくか?と言う問いと直線で結ばれています。
死の恐怖を克服するために身につけた「思想」は、いわば入院治療用の思想であって、退院した今となっては使い物になりません。
何故なら、突き詰めれば僕が獲得した真理は「良く死ぬ」ことだったからです。

・・・もう、死ぬことは考えたくありませんでした。

しかし、死ぬことを考えないためには死を知らなくてはならない・・・という矛盾を引き受けることでもありました。
ここで指す「死」とは、もちろん「癌」のことに他なりません。

退院後しばらく僕は、自分を襲ったこの癌というヤツについて、可能な限り勉強することになるのでした。


再び始まった家族との時間。
娘たちとの会話、一緒に見るアニメ、お風呂。
入院前と同じであっても、一瞬たりとも同じではない。

退院の翌日は長女の誕生日。
娘の成長の記念日が、またやってきた。やってきたというか、そこに僕が立ち会えた。
これは、なんと素晴らしい幸運なんだろう。
実力でも予定されたものでもない、幸運としか呼べない体験。

次の日曜日は、イチゴ狩り。
今(平成19年)も続いている我が家の恒例行事。
喜ぶ娘たちがいて、微笑んでいる妻がいる。
そこに僕が立ち会えている・・・これも、例えようのない幸運。

もう二度と、この幸運を手放したくはありませんでした。
手放さないためには、何をすればいいのだろう?

やはり未来は、癌を知ることから始まるようなのでした。
| 癌、以前以後(治療記) | 22:35 | comments(2) | - | pookmark |
[41]退院の儀式
「退院日は、常に唐突に告げられる」

僕より早く退院した何人もの患者さんを観察して得た真理です。

医師も看護師も、おおよその目安しか話しません。
まあ、考えてみれば当たり前で「あなたは○月○日に退院できます」なんて言ってしまって経過が思わしくなかったら、その後が大変ですから。

で、ただでさえ好奇心旺盛な僕は、同室の患者さん達の経過についても把握に努めていました。
尿路(腎臓)結石だと、破砕された石が肉眼で確認できてから○日(ちなみに本人が黙っていても、トイレから戻ってくると満面の笑顔なのですぐわかる)。
前立腺癌だと、失禁予防訓練を始めてから○日って感じ。
(お年寄りばかりだからなのか、性機能障害について語られているシーンにはとうとう遭遇しなかった)

でも、予想はしていても退院の許可はやっぱり突然なされるのです。
で、前立腺癌の患者さんはお年寄りが多くて、「もう退院していいですよ」と医師に告げられてもきょとんとしている。ベッドから携帯で家族に連絡しちゃったりして、「退院していいそうだけど、どうしよう?」なんて言ってる。
・・・喜びが足りない!(笑)

比べて結石の患者さんは、入院が長引くこと自体に納得できていませんから(自分が病気だという自覚がないので)、退院の許可がでるとメチャクチャ喜びます。

でも医師も看護師も、前日に「明日、退院許可でそうですよ」なんて絶対に言いませんからね。
だからおしなべて「退院日は、常に唐突に告げられる」ことになるわけです。

そこで僕の場合はどうだったのか?
見事にやられました。
あれだけ過去のデータに基づいて予想したというのに、退院許可は、やっぱり唐突に行われたのです。
でも、予想が外れても嬉しいこともある。
そう、予想していたよりも早かったのです、退院許可が。

「もういつ退院してもいいよ」
「いつでも」ということは今日でもいいのか?
いいんですって。
「でも今日は仏滅かあ」なんて主治医は言うけど、医者がそんなことにこだわってどうする?と言いたい。
仏滅だろうがなんだろうが、癌になったことが人生の仏滅みたいなものなのだから、はっきり言って、おみくじ10回続けて大凶を引こうが、もう僕は気にならないのです。
「今日します。仏滅でもします」と宣言し、それから急いで喫煙室に行って、妻に電話をかけました。
ようするに本心、一刻も早く家に帰りたかったのです。

しかし、妻は喜んでくれるどころか少し気が重い感じ。
「今日は仕事が忙しいからなぁ・・・」などと言う。
そりゃわかる。
でも、こればかりはワガママ通させて欲しいんだよ。もしかしたら僕は、この唯一のワガママのためにずっと優等生でいたのかもしれない。

ということで、なんとか妻にも承諾してもらい(というか妻が迎えに来てくれなかったら退院できないし!)、とうとう「退院」が現実となったのです。

退院と決まったら、しなければならないことがあります。
何度も何度も退院する患者を見送ってきた僕が、ようやくできる「あのこと」です。
それは・・・退院の証し、「ボックスティッシュ配り」です!
妻には電話で「クリネックス」を買ってくるよう伝えておきました。

次には、大量の文庫本の寄贈です。
もちろん、読んだ分だけですが、それでも30冊くらいはあったと思います。
すごい読書量だと思うでしょ?
いえいえ、何度もベストセラーや映画化されたことのあるその作家の小説が、漫画よりも読みやすかっただけなのです。
(関係ないですが、それってある意味、もの凄い文才ですよね)

できれば「shigeo寄贈」なんてゴム印を押したい気分でしたが、それは諦めて(当たり前です。第一そんなゴム印持ってません)、婦長(今は師長って呼ぶんですね)に寄贈の意志を伝えました。
もちろん、喜ばれました。
自ら文庫本を抱えて食堂に行き、スチール書架を整理して、shigeo寄贈本を綺麗にならべました。

寄贈するものはまだありました。
何のために買ったのかすっかり忘れたのですが、僕は未開封の大きな吸収パッドを1セット持っていました。
これは仲の良い看護師さんに差し上げました。
もちろん、喜んでくれました。

テレビのプリペイドカードは残高の清算もできるのですが、これは、仲の良かったOさんに差し上げました。

退院とはつまり、こうやって身辺を身軽にしていくことだと思うんです。
と同時に「立つ鳥跡を濁さず」と言いますが、単なる自己満足ですが、最後まで模範的な患者で去りたかったのです。

喫煙室でも、馴染みの患者さん達に退院を報告しました。
みんな喜んでくれました。
本心だと思いますよ。多少の羨望もあるかもしれないけど。
だって僕もそうやって、何度も何度もお祝いを言ってきたのです。

そんなことをしつつ、最後の昼食をいただき、荷物の整理をしている間に、退院のその瞬間は、着々と近づいて来たのでした。
| 癌、以前以後(治療記) | 23:41 | comments(4) | - | pookmark |
[40]退院へのカウントダウン
抗癌剤治療が済めば、いよいよ退院も現実味をおびてくる。
白血球の上昇をみながらの治療だから、(勝手に考えていた)退院時期は、何度も修正せざるを得ませんでした。
それでも退院は、着々と近づいてくる。
予定を修正するのは憂鬱な出来事でしたが、カレンダーを見ながら、あれこれ想定しつつ退院予定日の予想を立てることは、ウキウキする楽しい時間だったのです。

ふり返ってみると、抗癌剤以前以後で、入院や病院に関するイメージが、まったく逆転していたことを感じます。
典型的なのは病院食。
手術前、手術後を通じて、僕は「まあまあ」美味しいと思っていました。
「言われてるほど、まずくないじゃん」って感じ。
毎食残さず食べていたし。

でも、抗癌剤の副作用が明けてからは、とてもじゃないけど「食べたい」と感じられないものになってしまったのです。
だいたい、半分から2/3くらいで箸を置くようになりました。
もちろん、味が変わったわけじゃない。
そして、僕の味覚が戻っていないことだけでもなかったようです。

特に魚に対しての拒否感は強かったです。
丸ごとの焼き魚と目が合った途端、吐き気をもよおしたこともありました。
病院食=副作用という関連づけができてしまったようです。
というのも、退院後、魚と目が合っても、まったく平気でしたから。

食事は、食堂に行かないでベッドサイドで食べるようになりました。
もともと白血球が減少したとき、病室から出ることが禁止されていたので当然の処遇だったのですが、白血球が正常に戻っても、配膳は馴染みのヘルパーさんなので、そのままベッドに運んでもらっていたのです。

大量に持ち込んだ文庫本も読む気がしなくなりました。
音楽も聴きたくなくなった。

2クール目以降は、副作用と言っても怠さと微熱程度だったので、体調がメチャクチャ悪かったわけではない。
単に、気力が湧き起こってこなかったのです。
(ふと思ったのですが、これも副作用の一つ?)

患者さん達とのお喋り、見舞客とのお喋り。これがとにかく毎日の救いでした。喫煙室に行くのが待ち遠しくて、食事以外ずっと滞在してもいいくらいでした(もちろん、そんなことはしませんでしたが)。
あとは、漫然とテレビを眺めたりする時間が増えていきました。
インターネットも面倒になってしまいました。

そして思うことは退院のこと。
早く退院したい。一日でも早く。
それが無理なら、可能な限り外泊したい。
もう病院にはいたくなかったんです。

身体より、気持ちが入院に耐えきれなくなっていたのでしょう。
心が、とうとう音を上げたのです。

仮に、入院中に転移が見つかっていたら、僕はどうなっていたのだろう。
それなりに計画して動機付けをして臨んだ入院治療でしたが、やはり限界点はあったんだと思います。

とにかく、予定より遅れながらも、3クール目の抗癌剤投与も終わりました。
1回目は4日間点滴をつけっぱなし。
2回目は30時間。
3回目も覚悟はしていましたが、日中10時間だけで点滴から解放されました。
(1回目の副作用の度合いから2回目は用心しての点滴でしたが、2回目の副作用が軽かったので、3回目の点滴は中止になったとのこと)

数日後、一旦白血球が減少し、それが上昇して安定したとき、それが退院の目安です。

2月の下旬。
最後の抗癌剤投与が始まった日、僕はカレンダーのある日にちに印を付けました。
そのXディは、長女の誕生日。

長女の誕生日は、どうしても一緒にお祝いがしたかった。
何が何でもこの日に退院したかった。

この頃から毎夜、バレンタインディに娘達からもらった手紙を読み返しては涙していました。
退院の直前は、「つらさ」よりも「淋しさ」が心の中を満たしていました。
しかし別の観点から反対から考えると、それは肉体的に回復してきた確かな証拠だったのかもしれません。
もちろん、当時はそんなこと、考えもしませんでしたが。
| 癌、以前以後(治療記) | 22:17 | comments(2) | - | pookmark |